メッセージ
2011年07月03日(日)
キリスト者の生活原理
(詩編27編、ローマ12:1〜2)
2011.7.3
筑波みことば伝道所
今日は、ローマ12:1-2により「キリスト者の生活原理」と題して御言葉を学びたいと思います。
「こういうわけで」…言うまでもなく、9-11章も含めて、パウロがこれまで、説いてきたイエス・キリストの福音の全体を指しています。私どもは、今再び、キリストにある神の愛がどんなに大きく確かなものであるか思い起こすことができます。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。…私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6~8)。もうこの御言葉には抵抗できないですね。このように、私たちがもう抵抗できないような神の愛、そしてゆるぐことのないキリストにある私たちの希望について語りました後で、パウロは、「こういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧めます」、と言ってクリスチャン生活の原理を教え示そうとしています。
それは「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」という勧めです。ここでご注意いただきたいのは、パウロがあえて「自分のからだを献げよ」と言っていることです。ただ単に「自分自身をささげよ」、というのではないのです。自分自身をささげよ、ということでしたら、言うならば心の問題としていつでも私たちは神様にささげていると思っているかも知れない。それはへたをすると主観的な自分の思い込みに過ぎないのかも知れない。しかし、パウロは自分の体をささげよ、と言っているのです。体とは、目や耳や手足も含む全身のことです。具体的な私たちの生活のすべてがこの中には含まれてきます。おかねの使い方、時間の用い方、健康の維持などすべてがこの中に入ってきます。
パウロは、これこそが「私たちのなすべき礼拝」だと言っています。この「礼拝」という言葉に注目していただきたいと思います。「礼拝」と訳されているラトレイアと言葉は元々「神に仕える」という意味の言葉です。このラトレイアは、礼拝儀式を表す言葉としても用いられていますが、「70人訳聖書」(ギリシャ語訳旧約聖書)では、「全生活をもって神に奉仕する」という意味においてもしばしば用いられているとのことです。私たちの全生活を視野に入れた礼拝行為を指す言葉なのです。狭い意味での礼拝とそれを土台として展開されるクリスチャン生活のすべてがラトレイアなのです。神に仕える行為なのです。
クリスチャンの主婦(主夫)にとっては、台所で行う料理も礼拝行為です。クリスチャンの研究者にとっては、研究活動も礼拝行為なのです。このような生き方の原理は、私たち改革派教会が1966年に出した創立20周年記念宣言においては、「礼拝的人生観」と呼ばれています。人生全体が礼拝だというわけです。そして、これがパウロのここで勧めているキリスト者の基本的生き方の原理であります。
そこから、パウロが2節において更に展開しております、より具体的な生き方の原理が出てきます。全生活を神に仕える生活ラトレイアとして生きて行こうとするならば、この世的な生きかたとぶつかるところがでてきます。クリスチャンは、聖書に従って神に仕えて生きようとするが、この世の人たちは、言わば自分の欲望の赴くままに生きようとする。必ずしも二つの生き方は相容れないわけです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。これは、この世の人々の生き方の「かたち」にならうということ、これはどんどん変わっていくもの、それにいつもならおうとするとどこに連れてゆかれるかわからない。
ですから、この世の生き方に倣うのではなく「むしろ、心を新にして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにしなさい」(12:2)。
ここでは、自分自身の生き方を絶えず御言葉に照らして点検することが求められています。私たちの生き方も、長い間、この世において生きてきた者でありますから、歪んでしまったところ、さびがついてしまったところ等があり、神様の御言葉によって点検され直されなければなりません。神の息吹をもう一度吹き込んでいただかなければならない。
その基準となるのは、神様の御言葉です。「何が神の御心であるか」このことこを絶えず尋ね求めるということです。この点で毎週の礼拝で説教をうかがうことができるということは、実に恵みであり、特権です。御言葉を注意深く聞く中で私たちは何が神の御心であるか、(何が善いことであるか、何が神に喜ばれることか、また何が完全なことであるか)を段々と知らされるようになるのである。上記()内は、「何が神の御心であるか」を言い換えたものとして読むことができるでしょう。
神の御心…ここでは、聖書において明らかにされている、服従の規範としての「神の御心」のことです。私たちには明らかにされない神の「隠された御心」ということもありますが、ここではそういう意味ではなく、聖書において明らかに教えられている神の御心のことです。それを尋ね求め、それを基準としてわちの考え方を新たにしてゆくことか、ここでもパウロの勧めていることです。
最後にもう一度初めに戻って、1:1でのパウロの勧めの言葉を思い起こして、終わりたい。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。
定住の牧師がいなくなると、皆さんお一人お一人が、それぞれの体を神に対するいけにえとして献げて、キリストと教会に仕えるという奉仕の業が、いやでも応でも必要になってきます。ひとりひとり体をもって神に奉仕する、このことがもしなければ、、これが足りない、あれが足りない、と教会生活の不満ばかりが募って、教会全体の士気も落ちてしまい、伝道もできなくなります。
奉仕するという奉仕のわざが必要になります。一人一人をもって ですから、どうかキリスト者の生活原理の最初に「自分のからだを神に喜ばれる神様のいけにえとして献げよ」とのパウロの勧告があることを今日、深く心にとめて、私どもの引退した後も、このパウロの勧告を実践していただければと願っています。
お祈りします。
2011年06月26日(日)
今日は、ローマ8:31-39により『輝かしい勝利」と題して御言葉を学びたいと思います。8:31-39は「パウロの勝利の歌」と呼ばれている素晴らしい聖書の個所です。
「これらのこと」とは、3:21〜8:30でパウロが語ってきた「キリストの福音」の全体を指していると取ることもできますが、より直接的には、8:18〜8:30までを指していると取るのが自然でありましょう。即ち、この地上においては、私たちはキリストと共に苦難を経てきているそのような中で私たちが見出すことの出来る様々な慰めと励ましを指していると思われます。
そして、今日の所で最後の「勝利の歌」を歌うわけです。31節の後半でパウロは『もし神が私たちの味方であるならばだれがわたしたちに敵対できますが」と問いかけています。「神が私たちの味方であるならば」は条件文です。このことについて皆さんはどう思われますか。すでに納得しておられますか、確信をもっておられますか、まだ良くわからないとおっしゃる方があるかも知れない。大震災・大津波に遭った人々にいきなり『神は私たちの味方」と言っても果たしてすぐに受け入れられるかどうか。
それで、パウロは次の32節で、神が確かに私たちの味方であることを論証しようとしているのです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。
「その御子をさえ惜しまずに」…昔、族長アブラハムは、年老いてから妻サラとの間に与えられたひとり子のイサクを犠牲としてささげなさいという主の命令を受けます。アブラハムにとってはイサクは実にかけがえのない子でありました。ただ単に独り子であったというだけではなく、アブラハムが百才の時与えられたイサクの誕生には主の契約の真実がかかっていたのです。イサクは約束の子でありました。アブラハムに対する主の契約(アブラハムから子孫が空の星の数のように多く出る。そして、アブラハムは全世界にとって祝福の基となる)の真実がイサクの誕生と成長にかかっていました。アブラハムは必ず主はイサクを復活させてくださると信じて主の命令従おうとしました。
このアブラハムの信仰を神はごらんになって、イサクの代わりに小羊を用意してイサクの命をお救いになります(創世記22:12)。
ですから、昔からユダヤ人はアブラハムが独り子イサクを惜しまなかったことにアブラハムの信仰と神への真実な愛を見て取り、それはいつも語りぐさになっていたのです。
ですから、パウロがここで神が『独り子を惜しまずに死に渡された」と申しました時、ユダヤの人々はここに神の真実な愛を聞き取ったと思われます。御自身にとってもっとも大切な御子主イエスさえ惜しまずにキリスト信者のためにお与えになった神の愛…これ程に確かな神の愛は他に見ることはできないと思ったに違いありません。
とにかく、神が私たちキリスト者の味方であることは、御子をさえ惜しまずに私たちのために死に渡されたことによって確かなこととされたのです。(大津波の目撃者、被災者であっても、神が御子をさえ惜しまずに信者のために死に渡されたことを聞いたとき、神が彼らの敵ではないことを受け入れることができるのではないか。)
「訴える」「義とする」「罪に定める」…純粋に法廷用語。要するに、神が味方して下さるのであるから、誰が訴えることができるのか、ということである(33節)
「誰が」とパウロは何度も述べています(31,33,34,35節参照)。 この「誰が」とはどのような人、或いは(39節では「他のどんな被造物」と言っているので、より広く)どのような被造物を指しているのでしょうか。わたしたちをキリストにある神の愛から引き離そうとする私たちの「敵」とは誰のことでしょうか。「艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か」と、パウロは先ずリストアップしています(35節)。勿論、これらは、パウロがただ頭の中で考えてリストアップしたようなものではありません。パウロの生涯をたどってみると、彼の伝道旅行の中で実際に経験しなかったものはここにはない。これ以上のことを経験しています(Uコリント11:23-29 等)。
しかし、38節では、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも,他のどんな被造物も…神の愛から引き離すことはできない」と言って、より抽象的な言葉で、私たちに敵対する諸勢力というものを述べています。
しかし、この場合でもパウロが念頭においておりますのは「何が」ではなく、あくまでも「誰が」なのです。敵は人格的、霊的存在なのです。ですから、35節の艱難や苦しみのリストにしましても、パウロや教会の信徒たちが実際に経験してきたことなのでありますけれども、パウロがキリストにある神の愛から私たちを引き離してしまうのではないかと心配しているのは、例えば、飢えというような生理現象でもなければ、剣というような物質的な道具でもない、むしろもっと人格的な霊的な力なのです。飢えとか剣とかを道具として「キリストの愛から私たちを離れさせよう」と誘う悪魔的な霊の力なのです。
「天使」「支配するもの」(38)とは、エフェソ2:2の言う「空中に勢力を持つもの」(霊の支配者)のことです。また、「力ある者」も新約聖書が他の所で「権力」「権勢」(Tコリント15:24、エフェソ1:21、3:10、6:12、コロサイ1:16、2:10,15)等と言っている、サタン的なもろもろの勢力のことです。
「現在のもの」「将来のもの」「高い所にいるもの」「低い所にいるもの」…これらも、決して時間や空間そのものではなく、現在と将来の運命を決するようなもの、高い天上、深い陰府等、死後の運命を決するような力を指している。古代の人々は、それを、天体的な霊力と信じていました。パウロはそのようなローマの人たちが信じている、迷信的な星占いや天体的な霊の力が本当にあるのか向きになって議論しようとはしないしかし、とにかく、そのようなこの世の人々が最も恐れているものでさえ、キリスト者を「神の愛」から決して引き離すことはできない、と言っているのです(榊原康夫『ローマ人への手紙』(3)168〜169頁)。
パウロは37節において、キリストにある私たちキリスト者の「輝かしい勝利」(圧倒的な勝利―新改訳)を宣言しています。これを本当に「輝かしい勝利」と確信することができるのは、敵対する者たちの背後にもろもろの霊力がいつも働いていて、それらのもろもろの霊の勢力に対しても、キリストとその御霊なる神が圧倒的な勝利を納めて下さるということを信じる信仰によるのであります。
Cf.『ウエストミンスター小教理問答』102。神の国の進展とは、「サタンの王国が滅ぼされ、恵みの王国が進展すること」である。伝道とは、人の知恵や知識によるものではなく、御霊の力によって進展して行くものである。
このような御国の進展のための戦いにおいて私たちは圧倒的な勝利者となることができます。戦いは激しくとも、この戦いが霊的なものであることを信じて祈りつつ戦うならば、誰が敵対することができるのか。私たちは、勝利を信じて、御国のための戦いに励んで行きたいと思います。
お祈りします。
2011年06月19日(日)
今日は、ローマ8:29-30より「御子の姿に似たものとされる!」と題して御言葉を聞きたいと思います。!(感嘆符)をつけたのは「御子の姿に似たものとされる」ということを御言葉で知らされますと私どもの思いはある種のトキメキを感じるものだからです。
御子=イエス・キリストは私たちの信じ仕えている主であり、私どもが人生の一切の希望と喜びをこの方に託しているあがない主です。信者ならば、四六時中、この方のことは忘れることはないのではないでしょうか。
今日は6月19日、「神学校日」ということで、神戸改革派神学校のために礼拝献金の全額を献げることになっています。この神戸改革派神学校の初代校長は岡田稔先生でした。もう20年ばかり前に天に召されましたが、1949〜1967の18年間、校長を務められました。私も入学後の3ヶ月だけ岡田校長の下で学んだ経験があります。
若い頃の岡田先生は本当に外見を構わない牧師/神学者であられたということを多くの方から聞いています。ある時期などは、古本屋からの帰り道、片方のぞうりをどこかで無くされたのでしょうか、もう片方のぞうりだけ引っかけて、買ったばかりの古本を読みながら教会に戻られるのを信者の方が目撃されたという逸話もあるくらいです。これほどに学問好きの先生でしたが、この岡田先生に、古典的な著作、三部作と呼ばれている「キリスト教」「キリスト者」「イエス・キリスト」があります。
この中で「イエス・キリスト」は、三部作のうちで最後に出たものですが、そのまえがき(「序論」)のところでこんな風に書いておられます。「キリスト者にとっては、イエスさまは寝てもさめても片時も忘れぬお方である。『わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである』ということを信じているから、『父に対する子供らしい信頼』をもって、朝夕祈り、食事の度に感謝をしておる。病床の慰め、危険を感じた時の心のよりどころ、幾度か夢幻のうちにそのご臨在を覚えるのである」。
日本のキリスト教会の歴史の中でも有数の神学者である岡田先生にこのような文章があるのは、驚きだなと思って読んだことです。私どもキリスト者にとってはイエス様は、いと高きにいます神でありつつ、しかもこの世の他の誰よりも身近な存在であられる。そういう意味でトキメキの存在である。この方の「御姿に似たものとされる」などということを聞くならばそのあとに感嘆詞(!)をつけざるを得ないわけであります。
以上が今日の説教の序論的な部分ですが、これから本題に入ります。
(もう一度29,30節を読む)ここには神の救いのご計画とその審判の過程が記されています。
「前もって知っておられた者たち」…この場合の「知る」というのは知的に知るだけではなく、むしろ「愛する」という意味です。ですから、前もって知っておられたけれども神の愛の対象外であったということはありえないわけであります。あらかじめ知っておられた者たちを神は皆、キリストにおいて愛して、御救いへと確実に導きたもうのであります。そして、そのようにあらかじめ知り、ご自身の愛のうちにお定めになった方をどのようにお導きになるのかと言えば、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめお定めになった」とパウロは言うのであります。
「姿に似たもの」については、創世記1:27を参照。「神にかたどって人を創造された」と同じ言葉です。ですから、キリストの御姿に似たものとなるとは、創造の初めに与えられていたが、堕落によって損なわれた「神のかたち」の回復を意味するのです。
ですから、神の選びのうちにあった者たちをどうなさるのか。「御子の姿に似たものされる」。それが神の贖いのご計画なのだとパウロは言っているわけです。
そして、それは何のためであったかと言えば、それは「御子が多くの兄弟の中で長子となる」ためであったと、パウロはさらに言うのであります。ここには、神の救いご計画における神の家族の家族構成が明らかにされています。まず、長子(長男)として御子=キリストが中心におられる。その御子(キリスト)の姿に似たものとされた私たちキリスト者が、兄弟姉妹として、神の家族の交わりを構成しているのです。こういうキリストを中心とする神の家族を生み出すことが神の救いのご計画であったのです。
ヘブライ2:11にはこういう御言葉があります。「事実、人を聖なる者となさる方も聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで『私はあなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを讃美します』と言い…」。イエス・キリストが私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさらないのは、キリストのへりくだりと好意によることです。しかし、それにもかかわらず「長子となられる」ということは、キリストの栄光であります。多くの兄弟姉妹の中で御子が長子となることが神のご計画でありました。しかもひとりひとりの兄弟姉妹はキリストのかたち(御姿)に似たものとされるわけでありますから、御子キリストにとっては、こんなに喜ばしいことはないわけです。御子キリストは兄弟(姉妹)たちの中で長子となることによって栄光をお受けになったのであります。また、私たちも、御子の兄弟姉妹としてふさわしく御子のお姿に似たものとされることによって最高の幸せをかちうることとなります。これがこの29節に記されてメッセージであります。
皆さんは、自分自身という人間に対して嫌気がさしたり、自己嫌悪や劣等感に陥ってしまったりすることはありませんか。或いは、自己嫌悪にまで陥らなくても、なかなか自分という人間が好きになれない。もっと違った人間になりたいと思ったりすることはありませんか。私も若い頃、ずいぶん悩みました。
そのような私たちにとって御言葉の姿に似たものとなると神のご計画は最高に嬉しいことではありませんか。イエス・キリストは神でありつつ人となられた方です。それゆえ、おおよそすべての人間の中でもっとも人間らしい人であられます。イエス・キリストの御姿に似たものとされるということは私どもにとって最高の喜びであり、大きな希望です。
ただ神様はこのことを私たちの内に起こるべき急激な変化としてご計画になっているのではありません。一歩一歩と、私たちの生涯に亘る信仰生活の過程の中で御子の姿に似たものとされるのであります。
(30節を読む)。あらかじめ(御子の姿に似たものとして)「定められた」者を、神は御言葉の説教によって「召し出されます」。(Cf.使徒16:31「キリストを信ぜよそうすればあなたもあなたの家族も救われます」)。
そしてそのように「召し出した」者に聖霊を与えて「義とされます」。キリストを信じる信仰によって罪をお赦し下さって、御自身の御前に受け入れてくださるということ。
そして、「義とされた」者たちに「栄光をお与えになる」。これは終わりの日に実現する救いの完成の時のことです。この時には、私どもはもう完全にキリストの姿に似たものとされて、父なる神、子なる神(=キリスト)また 聖霊なる神との全き交わりを最高に喜び楽しむことができるのです。
私どもは、そのような信仰生活の道のりををこれから歩んでまいりたいと思います。
それではお祈りいたします。
2011年06月12日(日)
今日は,ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは、50を意味します。日本ムでは五旬節という場合もあります。旧約聖書の昔からユダヤの国では『過ぎ越しの祭り」という重要な祭りがありました。この過ぎ越し祭より数えて50日目に『初穂の祭り』がありました。過越祭から50日目ということで五旬節とも呼ばれたわけです。
この五旬節の日に,聖霊が降ったのです。この聖霊降臨を記念してキリスト教会が守るようになりましたのが、イースターから数えて7週間後(すなわち、数えで50日目)の主の日にお祝いするペンテコステです。このペンテコステ(五旬節)に起こった聖霊降臨の出来事については使徒行伝2章に詳しく語られている(2:1-4)。
「激しい風が吹いてきたような音が天から聞こえ、部屋中に響いた」(音の現象)。それから、もう一つは、視覚に訴える現象でありましたが、「炎のような舌が分かれ分かれに現れて、そこにいた一人一人の上にとどまった」のです。これらは、聖霊が降ったことのしるしのようなものでありましたが、実際に何か起こったのかと言えば、そこにいた人たち「一同は聖霊に満たされて”霊”が語らせるままに,外国の言葉で話し出した」というのであります。何故、外国語でか。五旬節ということで、エルサレムは各地から祭りのために集まってきていた色々の国や地方の人々がいた。ですから、かれは、自分たちの出身地の国言葉で神の大いなる御業について語語られるのを、驚きつつ聞いた。
それでペテロが立ってこの日に起こった出来事の意味を説明しました。その中心的なメッセージの内容は「イエス・キリストをあなたがたは十字架にかけて殺してしまったけれども、神はこのイエスを復活させられた」というものでした。Cf.32-33節。
ここで、「約束された聖霊を御父から受けて注いでいただきました」。(33)とペトロが言っていることに注目していただきたい。この言葉は旧約聖書以来、聖書でよく用いられている言葉でありますが、「注ぎ出す」「流し出す」「外へ流す」という意味の言葉です。水をどっどっとコップに注ぎ出す、というイメージですね。OTでも、例えばヨエル3:1,2では、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と預言されている。このように預言されていたことがペンテコステに実際に起こったわけです。「約束どおり聖霊を御父から受けて注いで下さいました」。
霊が注がれたというこの表現から私たちは何を学ぶべきでしょうか。ペンテコステに聖霊が教会に注がれた、という場合には本当に、どどっと聖霊が教会に注がれたのです。勢いがよかったのです。どのくらい勢いがよかったかと言いますと、その日ペトロの説教に応えて3000人もの人が洗礼を受けて、新約の教会が誕生した。教会誕生の原動力は実にこの聖霊降臨による力であったわけです。Cf. 聖霊についての信仰の宣言 三の3.
ペンテコステに聖霊が注がれた。それは、本当にチョロチョロではなく、どっどっと,満ちあるれるような仕方で聖霊が注がれたのだということを今日心に刻みつけていただきたい。
ところで、ローマ5:5と言えば私どもの今年の年間標語聖句に選ばれている個所です。ここにまたこの「注がれている」という言葉が用いられているのです。Cf.5:5「わたしたちに与えられた聖霊によって神の霊が私たちに注がれているからです」
ここでは、神の愛がわたしたちの心に注がれていると、言っているのですが、それは何によって注がれているのかと言えば、ペンテコステに教会に注がれた聖霊。この聖霊によって神の愛が心に注がれていると言っているのです。この聖霊が心に働いて下さいますので,私どもにとって神の愛ということは、ただ教理として知っているというだけに留まらなくなった、と言うことであります。神の愛もドッバーと勢いよく私たちの心に注がれているとパウロは言っているのです。
この場合の神の愛は、私たちが神を愛する愛というよりは、神が私たちを愛して下さる愛のことですね。即ち、私たちがまだ弱かった頃、私たちがまだ何もわからず、むしろ神様に対して罪を犯し続けているような罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくいださった、そのことにより神は私たちに対する愛をお示しになったという先行的な神の愛である。私たちがまだ求めない先から神は私たちを愛して下さり、私たちのためにイエス・キリストを十字架の犠牲として下さった。そのことは神の先行的な愛…このような愛に私たちが逃れようと思っても逃れることのできない神の愛を私たちがよくわかるようになるのは、確かに私たちの心にいます聖霊のお働きなのですが、しかし、ただ頭でわかるようにした下さっただけではなく、聖霊によって心に注がれるのであります。満ちあふれるばかりに神の愛は私たちの心に注がれるのであります。このことが強調されています。それで、私たちは、あふれるばかりに神の愛、キリストの愛を聖霊によって心に注がれますので、生涯この神の愛の中で生きるように変えられるのです。
或る19世紀米国の改革派神学者は言っています。「神の愛はしずくのようにポタポタとおちてくるものでなく魂全体に流れる如くに吹き込み満たすものです」。
また、「注がれている」…完了時制。ある時に始まり、これからも長く注がれ続ける、という意味が込められている。。
ペンテコステの日に教会に聖霊が注がれた。実に勢いよく注がれた。そのように私たちに与えられた聖霊によって神の愛は私たちの心に注がれています。私たちはそのように心に注がれている神の愛によって生涯を生きるものとなりたい。
お祈りします
</p>
</form>
2011年06月05日(日)
説教題が長いので難解のように思われるかも知れません。しかし、「すべてを益としてくださる」という最初に出てくる出だしの言葉は、皆さま方にとって馴染みのある言葉だと思います。多くの方が暗誦しておられるローマ書8:28の聖句ですね。
今日この聖句を中心として26-28節を学びまして神への愛を深める、そのような主日礼拝を共に守ることができれば、幸いに存じます。
26-28節では、主語はずっと一貫して”霊”即ち聖霊であります。「同様に”霊”も、弱い私たちを助けてくださいます」。私たち、神様にお祈りするときにいつもすらすらと言葉が出てくる訳ではない。公の場で祈るときも、一人で、個人的に神様にお祈りする時もそうです。これはただ体調や気分によるだけではなく、私たちの弱さの故です。どう祈ったら良いかわからない。何を祈ったら良いかわからない。それで、呻くような祈りになるということがしばしばあるのです。そのような時に、“霊”が助けて下さるというのです。うめくように祈り始める私たちを聖霊が助けて下さってまともな祈りができるようにして下さるというのです。26b節で、パウロ自身がこう言っているとおりです。26b節参照。「言葉に表せないうめき」…これは私たちの祈りについても言えるのですが、同時にまた、”霊”ご自身が呻いている。二つのうめきがあるのではなく,「私どものうめき」と「”霊”のうめき」が私どもの心の中で一つとなっているということでありましょう。
そしてその結果、”霊”はどのように祈ってよいかわからない私どものうめきを父なる神にとりなして下さるというのです。「この人はこう祈りたいのですよ、神様」と言って助けとりなして下さる。 それで私ども”霊”に助けていただいて、どう祈ってよいかわからなかった者が、父なる神の御前にまともな祈りができるようになるのです。このことをパウロは”霊”が私たちのために「とりなして下さる」と言っています。”霊”が私たちの内におられて、祈るべきことも知らない私たちに代わって、祈らせてくださるのです。
それで私たちは,弱くても聖霊の助けをいただいて、励まされ,勇気づけられて祈ることができるように導かれるのです。
さて、それでいよいよ28節でありますけれども私はこの聖句に一つの解釈上の問題があることに気づかされています。これは2年ほど前、東関東中会の合同執事会の例会で、榊原康夫先生(東部中会引退教師)が問題提起されたことです。わたしもそのテープを聞くことができました。また同じく榊原先生は最近出版されたローマ人への手紙の説教集でも同じような読み方をしておられます。それはどういうことかと言えば,口語訳聖書でも新改訳聖書でも主語が「神」となっているのですね。そのように翻訳されています。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益とするようにして下さることを私たちは知っている」(口語訳8:28)
「神を愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が、すべてのことを働かせて益となさることを私たちは知っています。(新改訳、同所)
いずれにおいても、万事を益とするように働かせて下さるのは「神」であるという解釈です。ここには”霊”(聖霊)が介入する余地はないかのようです。すなわち、私たちの知らないところで神がその摂理的な御計らいによって、起こり来るすべてのことが私たちの益となるようにして下さるということ。
それに対してここの所をよく読んで見ますと、主語は26-27節に続いて”霊”ではないかと思われるのです.。28節は、主語が神であるか、”霊”であるか、どちらであるかは示されておりませんので、前後関係から読み取る他はないのです。そうすると、26節27節も27節もずっと主語は“霊”ですから、も27節も主語は”霊”であると読むのが自然ではないかと思われます。そうしますと,こういう文章となりますね。「霊は,神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者と共に働いて万事が益となるようにしてくださる、ということを私たちは知っている」。
私たちの心のうちに、祈りの中で助け導き、働きかけて下さるのは霊である。その霊の導きと助けにより私たちは神を愛するように仕向けられ、万事が益となるようにして下さる」。わかりやすく言えば、聖霊が私の心の中に神を愛する愛情を育てて下さって、そのことによって,すべて起こり来ること一切が私にとって益となるようにして下さるということです。霊が私たちの心を神への愛と導き、燃え立たせてくださることによって、「すべては善し」と告白できるように変えてくださるというのです。
ここには聖霊の働きにすごく顕著なものがあるわけです。神に対して中立、無関心の態度から神を愛する愛情へと燃え立たせて下さって「この神様がなして下さることことだから善いことなのだ」という確信へと導かれる。はじめは中々その意味がわからなかったのだけれども、やはり、それで善かったのだ、そして、一番よかったのだと確信させて下さる,受け入れることができるように導いて下さる。“霊”の働きにより、そのような魂の変革が起きることが示唆されています。
「本当に究極的な幸せというのは、勿論、初めは本人はそれを自覚しないかも知れませんが、ついには本人も「これがよい」という心からの神への愛、感謝、満足が本人の心に芽生え始めて、すべてが益となる、ということが告白される』(榊原)のではないでしょうか。
そういう意味で、パウロはここで「聖霊が神を愛する者たちと共に働いてすべてを益となるようにして下さる」と言っている。そのように読むのが一番自然で、説得的であるとわたしは思います。私たちの知らないところで神様が万事を益として下さるというのではなく、私たちの心のうちに聖霊が「すべてよし」という確信と喜び、感謝を芽生えさせてくださると解釈するのが最善でありましょう。
本当に神に安らぐ信頼感、満足感、幸福感を私たちも聖霊によっていただくことができます。「主よ,あなたのなさることはすべてよいことです。私は聖霊によってそのことを知らされました。あなたの御名を讃美し、あなたのご慈愛の御手の中に全き憩いをいただいておりますことを感謝します。あなたのなさることはすべて、あなたの慈しみ深いみこころに従って麗しくすばらしい」と、そのように今日、私たちは告白したいもの者です。
ハイデルベルク信仰問答の第一問とその答を読んで、今日の勧めの締め括りと致します。(同信仰問答1を参照)。
お祈り致します。
前のページ |
©2005 Tsukuba MIKOTOBA Reformed Church
powerd by Web Diary ver 1.29